バヤシの履歴書 vol.9

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36 新しい出会い、指導者としての葛藤

さらに家族の不幸が訪れた。
我が家の王子的存在、ミニチュアダックスの凛太朗が余命宣告を受けた。
父が亡くなり、凛太朗の死が迫っている。

何のために今まで頑張ってきたんだろう?
本当は何がしたいんだろう?
父が居なくなった今、期待に応えなくてもいいかな?
若林由美として生きてもいいんじゃないか?
そう思え、その時の戸籍から卒業しようと決めた。

最期を精一杯看ることを最優先にし、2ヶ月半濃厚な時間を過ごすことができた。
春に桜を一緒に見れたらと思っていたが、凛太朗は12月31日に静かに逝った。

年をまたがず逝った凛太朗から
「いつまでも自分の看病していないで次のステージにいきなよ」
と言われた気がして仕方なかった。
凛太朗ロスになることを心配していた母の予想に反して、私はすぐに気持ちを切り替えた。

レッスンの話があれば積極的に引き受け、八王子と池袋にある施設で再スタートを切った。
八王子は屋外練習場。
池袋はインドア練習場。
客層も違う。
設備も違う。
屋外練習場はゴルフ場の雰囲気に近くスムーズにスタートできた。

一方インドアはシミュレーションを使いインパクト状況を計測する指導を求められたが、10年前はまだ少なく、私自身も戸惑った。

専門用語もわからずデータもない。
レベルごとの傾向が把握できない。
わからないことだらけだった。

覚えたての難しい用語を屋外練習場で話すと「教え方が難しくなった」と敬遠された。
数値に強い人からは「そんなこともわからないの?」と対等に話すこともままならない。
今までの指導か、数値を活用するために学び直すのか…
この時自分の指導方法を模索した時期でもあった。

幸いインドア練習場で男子プロとクラブのクラフトマンから数値やクラブのことを学べた。

男子プロはシンプルなメソッドを強みとしている人で数値に関しての知識が秀逸だった。
考え方やメソッドは刺激的で多くを学ばせてもらった。

もう一人は、現在クラブ提供をしてくださっているCHIP GOLFの店長。

師匠からは「プロたるもの与えられた道具を使いこなして一人前」と言われ
打てないのは自分の実力が足らないと思い練習してきた。
クラブの作り手の話を聞くことで考え方が変化した。
この2人から学べたことは多くあった。

37 コーチングを学ぶ

レッスンする環境も整いそれなりに充実していたが、まだイップスを抱えていることや自分の戦歴に引け目を感じ、自信が持てずセルフイメージが低いままだった。
指導者として恥ずかしくない自分になるため、コーチングを学んだ。

オンラインのコーチングスクールは少人数で週一回、同じメンバーとゆっくり学ぶスタイルで少しずつ自分を出しても大丈夫という安心感が私には合っていた。
スクール内のイベントや勉強会に参加することで、仲間ができたこともとても大きかった。

さらに大きな転機になったのは継続コーチをつけたこと。

コーチになるきっかけのイベントでの一コマ

私の経歴を聞き、活かしきれてないと感じて継続コーチを買って出てくれたのが現在ビジネスパートナーである石田ひろこコーチ。
ひろこさんは前職で業務改善や運用についてのシステム構築が強みだった。

私が苦手な部分を強みに持つコーチとあって行動のスピードが格段と上がった。
不思議と先延ばしにしていた事がドンドン進んでいく。

コーチに否定されず承認してもらえる。これは自分の自信に繋がっていった。

あるきっかけがあり、ひろこさんにビジネスパートナーとして一緒にゴルフ事業をして欲しいと勇気を出してオファーした。
ひろこさんは即答せず、ある提案をした。
それは仕事を一緒にできるかどうかの相性を確認するための「合宿」だった。

選んだ場所は東松苑ゴルフ倶楽部とその近くにあるCOCOファームワイナリー。

そこで私たちはたくさんの話をした。
お互いの考えや将来のこと、パートナー解消の条件についても決めた。
終わり方を決めてスタートしたのは今でも良かったと思っている。

不思議なことに、一緒にいても気疲れせずお互い自然でいられた。
合宿後、二人でビジネスをスタートすることを決めた。

38 テクニカルスタッフとしてオリンピックに参加

2021年、東京オリンピックが開催される事になった。
この先、生きているうちに日本で開催されることは無いと思い、大会に関わろうと決めていた。

ゴルフ協会各団体に要請があり私はテクニカルスタッフに応募した。
2019年から研修が行われていたが新型ウイルスの流行で開催が危ぶまれた。
しかし、私にはどうしても報告したい人がいた。

それは、高校のソフトボール部でエースを競い合った同級生との約束だった。
彼女とは、ゴルフの道に進んでから再会するまで四半世紀近くの間、年賀状だけのやり取りだった。

ある年賀状で病の事を知り、会いに行った時は既に余命宣告されていた。
病魔と戦っていた病室から送られたメッセージに「英会話を活かして東京オリンピックに関わりたい」と送ってきた。

私も「ゴルフでオリンピックに関わりたいと思ってる」と返信した。
彼女は叶わないことがわかっていたと思うが「絶対オリンピックに行こう!そこで会おう」と力強いメッセージをくれた。

その後、彼女は間も無くしてまだ幼いお子さんを二人残し天国に旅立ってしまった。

私は東京オリンピックの初日、日本代表の松山英樹選手のスコアラーとして大会に関わることができた。
このラッキーはきっと彼女からのプレゼントだったと思う。
この大会で世界のトッププロのゴルフを間近で見れたことは一生の思い出となっている。

2021年12月「Beautiful Life with Golf」としていよいよ活動を開始した。
このネーミングを決めてくれたのはひろこさんのメンターの一人である谷口貴彦コーチ。
谷口さんは「スポーツコーチは技術を教えることは上手だけど石田さんの様なコーチがコミュニケーションを伝えた方いい」と私たちの活動を早くから後押ししてくれていた。

名前が決まり活動を開始するが、何から始めていいのかわからないことだらけ。
コロナ禍で飲食店が全て閉まってしまいなんとか見つけた牛丼をテイクアウトして、真っ暗な公園の脇に車を停めて食べた。なんとも切ない気持ちになり、
「いつかビックになってやる〜!」と笑いに変えて話していたのが懐かしい。

39 ビジネスパートナーとの二人三脚

ひろこさんをビジネスパートナーにしてから嫌な思いもたくさんした。

なんで二人もコーチがいるの?
ゴルフのことがわからないのにコーチできるの?
趣味みたいにやっている事には付き合えない。

そんな言葉を言われたり、空気感を感じる事があった。
確かに自分たちも事業をすることに、まだぼんやりしていたところがあった。

私は独り身で気楽なところもあるが、家庭もあり子どもが3人いるひろこさんをゴルフ界に足を突っ込ませてしまったという焦りが常にあった。
しかし、私の不安をよそに不思議とひろこさんは私の力を信じていて、イップスの事も早い段階から私の強みになると言っていた。

自分達の活動を知ってもらうために、色々と試した。オンラインイベントを行ったり、コミュニティ内でゴルフ部を作り顧問としてレッスンもした。
他にもあれこれ切り口を変えながら活動した。

まわりから順風満帆の様に見えていたかもしれないが裏ではジタバタしてぶつかり合う事も多く、独立、起業の大変さを身を持って味わった。

極寒での撮影だったのにお蔵入り(泣)

一人だと絶対諦めていたが二人だからこそ次のチャレンジに進めてこれたと思う。

それには二人がコーチングを学んできたことが本当に大きかった。
ゴルフレッスンに取り入れたことはもちろん、私にとってコーチングの中で重要視されているパーソナルファウンデーション(自己基盤)の学びはなくてはならないものになった。

最初、パーソナルファウンデーションの第一人者、近藤真樹コーチのこの講座を受講するか否か迷った。
自分と向き合う自信がなかった。
正直嫌だった。

ゴルフで散々叩きのめされてきた私は「もういいでしょ」という気持ちだった。
実際のところ良くはない。小骨が自分の喉のどこに引っかかっているのかちゃんとみる必要があった。

先に受講していたひろこさんより遅れて私は受講することを決めた。

1年くらいは「スッキリしないし、何だかモヤモヤする」という感じで、真樹コーチにそのことを伝えると「うまくいっている」と言われた。

モヤモヤすることがうまくいっているとは全く意味がわからなかった。

出張先の名古屋である出来事が起きた。
私が何気なく取った行動がパートナーのひろこさんを蔑ろにしていた行動だと気付けていなかった。
無意識とは恐ろしい。
ひろこさんからフィードバックを受けたが悪いと思っていないから始末が悪い。

ひろこさんの主張が全く理解できない。
パートナー解消の話まで出てきた。
夜中まで話し、以前もこういうシーンがあったとようやく気づいた。

原因がわかり、自分の中の押し込めていた感情を出し、心が軽くなる経験を初めてした。
同じ学びをしていなかったらこの時パートナー解消は免れなかったと思う。

少しずつ少しずつ螺旋階段を登るように自分の内面を扱っていくと着実に変化をし、自分の基盤が強固になっていった。

40 チャレンジと変化が始まる

2024年2月オンライン開催のLPGAジュニアコーチサミットにジュニアコーチの中から講師募集があった。
私はこの機会に自分の今まで学んできたことをシェアしたいと思い手を挙げた。

タイトルは「コーチ上手になる」
内容はコーチングの構造についてとレッスンで大事にしているお客様とのセットアップに決めた。

76名のジュニアコーチが参加するサミットの準備を数ヶ月前から行なった。

レジメ作成
研修コーチからのフィードバック
マスターコーチからのアドバイス
18人のコーチ仲間の前でのリハーサル
自分たちが出来る準備をして当日を迎えた。
沢山の方達の支えを受けて無事終了することができた。

また、その頃には中上級者のオファーも増え、幅広いレベル層のゴルファーに伝えていきたい、と新たなチャレンジを考えていた。

それはプロゴルファーのコーチをすること。

とはいえ、いきなりできる訳もないので東松苑ゴルフ倶楽部社長の中島社長に相談した。
すると「それにはまず拠点があった方がいいんじゃないか」と東松苑を拠点にする意外な提案をもらった。

驚きながらもアカデミーという形でスタートさせる事を決めた。
2021年に商標登録した「逆算ゴルフ®」を活用するときが来たと思い、逆算ゴルフAcademyと名前をつけた。
二人で行動し続けてきたことで予想より早く、一人では辿り付けない所まで来た気がした。

しかし私にはまだ、大きな未完了があった。
イップスのことだ。まだこれは扱いきれず脇に置いたままだった。

ある時、コーチングの先輩コーチにゴルフに誘われた。
イップスの事を伝えると「無理にゴルフしなくていいのよ。そのままでいいから一緒に行きましょう」と言われ、プレーせずに帯同した。
だが、あるホールのセカンドショットで突然「打ってみる?」と促された。

帯同だと思ってカッコつける余裕。この後事件が起こる(笑)

この時私は、人前でイップスの症状が出たら今までのすべてが失われると怯えていた。
渋々ショットを打つと予想通り、ミスショットになった。

だが、この時「アプローチとパターにはこの症状が出ないんですよね」と言葉にできた。
初めて「イップスでゴルフのできない」状態の中身が何がダメで何はできるのかが、はっきりと認識できた。
それをきっかけにゆっくりイップスに向き合うようになっていった。

41 イップスと向き合う

少し話をできるようになったからといって打てるようになれるわけはなく、YouTubeの撮影をしている時にイップスの症状が出まくり撮影が難航した。
YouTubeにはテーマがあり、それに沿って撮影するものだが自分が発信する資格があるのか?と悩んだ。

その日の夜、パートナーのひろこさんと話をする中で、「無理に発信し続ける必要はない」と言ってくれた一方で、突然「ねぇ、イップスでーす!って明るく宣言しちゃったら?」とおどけて彼女は言った。
さっきまで辛そうだと労わってくれていたのに突然、この人は何てことを言い出すんだと腹が立った。
後日、この事をテーマに信頼する先輩コーチにセッションで話してみた。
するとなんと、そのコーチもひろこさんの提案に賛成した。

「イップスが治るかどうかはわからないけど、多くの人にあなたの抱えている状態を伝えていくこと。それこそ強みになるんじゃないかな?」
「YouTubeのエンディングでイップス集をやってみるとか?」
と笑って言った。
普段、あまり笑った顔を見せないコーチが嬉しそうに提案するのでこれにも驚いた。

「あるがままのあなたを受け入れることができたら、イップスの症状は小さくなっていくんじゃないかな?」と言われてセッションは終了した。

二人ともふざけて言っている訳ではないのは理解していた。
重く暗い私の現状を笑いが出るような状況に変えていったら、きっと変化することを見越して提案してくれていることはわかっていた。
しかし勇気がいる決断だった。
今まで良い方に向かうことだけに注力して、悪い状態の自分を許せなかったのは自分だった。
行動を実践できるか否かは私自身の選択に委ねられた。

そんな心境の中、コースデビューを含めた初心者の方のラウンドレッスンがあった。


参加者はコーチングのコミュニティメンバーでもあったので、ひろこさんが休憩中に「ここにいる人達の前なら話せるんじゃない?」とイップス公表のタイミングを促してきた。
私はそれまでのレッスンの時とは別人のようにしどろもどろな口調で
「実は偉そうに話しているけど、自分はイップスを抱えながらレッスンしている。そんな自分がレッスンをしていることをずっと悩んでいたけど、、、」その後何を話したか覚えてない。
下を向いて目も合わせられなかった。

さらにイップスの酷い症状が出ている動画まで見せた。

すると参加者のみんなから
「大事な話をしてくれてありがとう」
「そんな先生に教われるなんて嬉しい」と想定外の言葉をかけてもらった。
同情されるだろうと予想していた私は驚きすぎてキョトンとした。横でその様子を見ていたひろこさんは涙ぐんでいた。

それから、機会があれば積極的に人前でサラッと公表するようになっていった。
時に笑いを交えて話すことで告白された方も気軽に受け止めてくださり、ゴルフだけでなく他のスポーツやビジネスに置き換えて質問されることも多くなった。

その変化はレッスンにもいい影響を与えた。

受講者の心の中にある気持ちを正直に言える環境を作る。
安心する場所と人の前で本音を言ってもらう。
ゴルファーがやりたいこと、叶えたいことにレベルは関係なく自由である。
本当の目標がクリアになってやることが分かると、安心して気持ちよく動けるから結果も変化してくる。
自分自身で手応えを感じるから練習したくなる。

このサイクルができると目標達成はグッと近づいてくると思うようになった。

最終話

コーチングを学んだゴルフコーチとメンタルコーチの2人が付いてサポートするゴルフレッスンは他にない唯一無二のレッスンだと自負している。

それは現役時代の私がそばにいて欲しかったコーチ。

あの時の私が、
「辛い」「辞めたい」「どうしたらいい?」と言える場所と相手がいたら随分と違っただろうと思う。

それが今、ゴルフコーチとして活動している原動力になっている。
自分と同じ様にゴルフで苦しんでいるゴルファーの一助になる存在でありたい。

今回ビジネスパートナーのひろこさんから
「自分に向き合ってきた今のあなたが、今まで経験してきた自分のストーリーを改めて書いたら違う視点で書けると思う」と背中を押され書き始めた履歴書。

確かにここ数年は、今までの経験が一気に繋がってきた!そんな感覚になることも多かった。
決していいことばかりではなかったが、一つひとつが自分の肥やしになっている。


2023年4月。
私にとって大きな大きな存在だった同期の心友が静かに旅立った。
哀しみの中にあっても彼女が私に遺してくれた言葉をしっかり受け止め、彼女との約束を果たすことが私の力になっている。

亡くなる一年程前、年末近くだったと思うが唐突に
「あなたはゴルフ場で活きる人よ。年齢を考えておばさんを安心させてあげなさいよ」と敢えて厳しい意見を言ってくれた。
27年間の付き合いがあるだけにお互いの家族のことはよく知っていた。

恐らく私にその言葉を伝えた時、彼女は自分の寿命がそれほど長くないことを悟っていたと思う。

そう言われて私は「あなたこそまだまだ頑張れる。何かやりたいことを見つけようよ」というと、
「私は十分頑張ってきた。もう頑張れないよ」
そんな言葉が返ってきて私は不安になったが彼女の本当の気持ちに気づくことはできなかった。

彼女がいなくなってからたくさんの言葉が思い出され、毎日彼女を想わない日は無い。

今年の夏、仙台の地でようやく納骨を済ませた時、彼女があちらの世界に本当に行ってしまうんだと実感し涙が止まらなかった。

最後に遺骨を抱きしめさせてもらった時、感謝の気持ちが溢れた。
彼女が遺してくれた言葉を大切に、頑張ろうと改めて誓った。

27年間私の良いところも悪いところも含めていつも変わらず接してくれた。
自分に正直に生きた心友に胸をはって墓前に報告ができる自分でいたいと思う。

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