バヤシの履歴書 vol.6

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22 意図しないスイング改造、その代償

私がデビューして2〜3年した頃からプロゴルファーもテクニカルコーチをつけチーム体制をとり始めた頃だったと思う。

都内にいいコーチがいると地元の応援者の方が、指導者・コーチなしで頑張っている私の現状を打破してあげたいと紹介してくれた。
このまま一人で頑張っても埒が開かないことは私にもわかっていた。

藁をもすがる思いでその人の申し出を受けてレッスンにいくことにした。

今まで技術的に指導してくれた人は中島ゴルフを継承している人たちだった。
最新ゴルフ理論で自分のスイングを分析し改良していくことが容易ではなく、完全に自分のスイングを見失うことになるとはこの時思いもしなかった。

勧められるままレッスンに行きスイングを分析してもらった。

その時初めてボールを正しく打つためのスイングプレーンというものが存在することを知った。
プレーンをほんの少し修正すれば良くなるだろうという見立てを聞き、ほんの少しなら試合に出ながらでもいい方向にいけるんじゃないかという思いで、レッスンで教わったドリルを行いスイング修正に取り組んだ。

ドリルの内容は今まで中島ゴルフで習ったことがない「切り返し」という、スイングで重要かつ難解な部分に特化したものだった。

ほんの少しの修正と思っている私とコーチの見ている景色が違ったことにこの時は気付いてなかった。

試合中レッスンで教わったことを実践するとシャンクが連続で出始め、スコアをまとめるという以前に、スイングをすることが怖くなってしまった。

突然シャンクを連発している状態を見て一緒に練習していた先輩プロから、何を教わってきたのかと尋ねられた。
教わったドリルの内容を伝えると「シーズン中に取り掛かる内容じゃない。そんなことしたらゴルフにならない」と忠告を受けた。

「もっと早く教えて欲しかった〜」と心の中で思ったが後の祭りだった。

このままレッスンを受け続けるとこの後の予選会に間に合わないと思い、短い期間でコーチ契約を解消した。
しかし一度頭に入った理論をすぐに忘れることができる訳でもなく、スイングを戻そうと思っても違和感があり元には戻らなくなっていた。

今振り返ってみるとショートホールで突然シャンクが出たのがスイングできなくなった最初のきっかけだったかもしれない。

あの時シャンクが出るという感覚は全くなかった。
ただレッスンで教わったことを実践したらシャンクが出た。
たまたまシャンクが出たと思い、次はさらにチェックポイントを意識してスイングしたらシャンクがまた出た。

その後は試合をどう終わらせたかは覚えていないくらい気が動転していた。

それからショートホールが怖くなったことを思い出した。

ショートホールが近づくと手に脂汗が出て心臓の鼓動が早くなる。
ショートホールが気になって段々とその前のホールも動きが悪くなるという状態だった。

この状態はすでにイップスのはじまりだったと振り返ってわかった。

ただ当時は、何とかアプローチとパターで凌いでスコアを80台で踏み止めるという極限の精神状態で試合に出続けていた。

23 スコア100。緊張の糸が切れた

その様子を心配して同期の一人が自分の師匠に見てもらいながら一緒に練習しないかと誘ってくれた。

六人目の指導者との出会いだった。
その人は男子プロで以前にも面識はあった。

プロデビューしたばかりの頃に同期の所属先で練習させてもらった時
「お前、いい球打つな」
と褒めてもらったことがあった。

その時もらったアドバイスのおかげで翌日のミニツアーで優勝したので私のことをよく覚えてくれていた。

しかし今の私の状態を見た時
「随分とスイングが変わってしまったな」
とこれからを心配するような顔で私のことを見ていた。

その後、何ヶ月かに一度のペースで練習を一緒にさせてもらいながら、何とか気持ちだけで試合に出ている状態だった。

2000年、ある下部ツアーの試合で100というスコアを叩き、精神的にも肉体的にも限界を迎えた。

私がティエリアからのショットを右に左に曲げて前に進まなかったので競技委員がマーシャル(巡回)で回ってきた。

プレー進行を遅らせてしまったことを謝ると
「色々あるよな」と言って通り過ぎていってくれた。

やっとの思いでラウンドを終え100を叩いたスコアカードを提出すると、スコア誤記を確認する競技委員の人が私の顔を何度か見直した。
その後ふっと小さく笑ってスコア提出を認めた。

その光景は苦い思い出として心に深く残っている。

後になって「なぜ棄権しなかったんだ?」と問われたがその選択は自分の中にはなかった。
意地とかそんなことではなく、ただ目の前にある試合に出ることだけしか考えられない状態だった。

この時救われたのは他の会場で試合に出ていた同期の親友からの電話だった。
「どうしたの?何してるの?ふざけてるの?」
といつもと変わらない明るい声で電話してきた。

事情を説明すると
「100も叩くから何かあったんだろうとは思ったけど仕方ないよ。また一緒に練習しよ」と言ってくれた。

しかし私は
「プロが100も叩いた。記録として残る。もう終わったな」
と張り詰めていた緊張の糸が切れてしまって、一緒に練習して頑張ろうという気には到底なれなかった。

私は完全なイップス状態となり、この後人前でクラブを振ることさえできなくなってしまった。

間も無くして来期の出場権をかける予選会が始まろうとしていた。
当然周囲は私も予選会にエントリーするものと思っていた。

しかし当時所属していたゴルフ場の先輩プロだけが私の精神的限界を見抜いていた。
「今の精神状態でゴルフを続けても自分が辛くなるだけじゃない?少しゴルフから離れるのもいいかもしれないよ」と助言してくれた。

みんなが予選会で頑張って戦っているのに。
私をここまで応援してくれた人がいるのに。
支えてくれた家族に申し訳ない。

勝手な思いを伝えることができずに予選会が行われている時期に、ひっそりと一人で放浪の旅に出かけた。

24 傷心プロゴルファー、放浪の旅に出る。

早朝家族に気付かれないよう家を出た。
当ても無ければお金もない。
1週間という時間をゴルフしないで過ごすのは19歳の誕生日以来だった。

まずは岐阜に向かった。
途中山梨県白州にあるサントリー工場を偶然見つけ立ち寄ってみる。

平日ともなると工場見学する者もいない。
私と案内のお姉さんのマンツーマンでの工場見学になった。

神妙な面持ちの私を心配して案内のお姉さんがなぜ一人できたのか尋ねてくれたと思う。
まだ自分のことを話すトレーニングをしていなかった私はどう説明していいか分からず大した話もせず工場を後にした。

次は飛騨高山を目指して車を走らせ、ユースホステルという本で探したお寺に泊まった。
大学卒業記念の旅行で日本各地を旅する女子大生と同部屋だったが、夢を抱いている女子大生とこの世の終わりと思って逃避行している自分では会話も弾まない夜だった気がする。

人といると自分がどんどん惨めになると感じて誰とも関わらないように、その後はスーパー銭湯を利用することにした。

関東育ちで日本海を見ることがなかったので金沢に向かう途中、荒波の日本海の海岸に立ち寄ってカップヌードルを食べた。
強風で一気にカップヌードルが冷めたのを覚えている。

相模原と栃木しか知らない私はどこへ行ったら気分が上がるのか、気持ちが切り替わるのか分からずしばらく考え込んだ。

祖父が黒部ダムの工事に関わったと母が話していたことを思い出した。

思いを巡らせると結構次から次へと出てくるもので、
修学旅行の定番の京都奈良にも行ったことがなかったこと。
どうせなら兵庫県の宝塚にも行ってみたい。
小学生の頃興味が湧いてバイクレイサーの平忠彦の写真を部屋に貼っていたことを思い出し、鈴鹿にも行ってみたいと思い、全て訪れてみた。

この時外部からの連絡は一切絶っていたが、
「お前が置いてきた手紙をおばさんが読んで、お金も大して持っていないのにどこで寝てるのか?と心配して泣いている。
どこにいるかだけでも連絡してあげて」
と従姉妹からメッセージが入っているのを目にして家に帰ることにした。

1週間ほどして家に戻ると母から
「ウチにもっとお金があればアメリカでもどこでもゴルフ留学させられるのに」
と言われた。続けて、

「今までこれだけ苦労してきたんだからもう少し頑張ってやってみたらどう?」
という言葉を聞いて、

「もう十分頑張ってきたんだよ。いいと言われることは全部やってきた。頑張れって言われるのが辛い。それにお金があれば、なんて親に言わせてまでゴルフを続けたくない」
とゴルフを辞めることを咄嗟に口走っていた。

この時の会話について20年以上経っているというのに
「頑張ってきた人に頑張れっていうのは酷だったよね」
と母は今だにこの時頑張れと言ったことに対して後悔しているみたいだ。

私だけじゃない。
親も一緒に辛い想いしながら自分を見守ってくれていたんだと今ならわかる。

25 心機一転。ツアー帯同キャディとなる

高校卒業してすぐにゴルフの道に入ったことでお金に対しての価値観がまるでわかっていなかった。

ゴルフは、してもしても終わりがない。
これでいいということはなく満足した時点で成長は止まる、と常に師匠から言われてきた。

進化、進歩し続け、努力をする。
その成果として試合で賞金が稼げると思っていた。

試合に出られないだけではなくゴルフが人前でできないとなると食べていく手段がない。
働くといっても何をしていいかわからなかった。

そんな時母が
「ゴルフから離れてしまうとまたゴルフを再開したいと思っても中々戻れないんじゃない?何かゴルフに関わることで仕事を探してみたら?」
と助言してくれた。

そこでアジアサーキットで仲良くなった一期後輩のプロと台湾出身のプロでシード選手だった二人に帯同キャディをさせてもらえないかと打診してみた。
彼女たちも生活をかけてトーナメントを戦っているため即答はしなかったが、私の申し出を受けてくれた。

2002年のシーズンを二人のプロの帯同キャディとしてスポットで参戦させてもらった。

要請がない時は少しでも働こうと思ったがいつ帯同キャディの要請があるかわからない状態だったので、多少の融通が効く母の妹の豆腐製造業でバイトさせてもらった。
この時親戚だからと甘えることがないように自分なりに筋を通そうと、叔父に頭を下げてお願いに行った。

朝の4時から働き、早起きは辛かったが仕事があって仕事に終わりがあることに達成感を感じた。
また、叔母が期待していたよりも私がよく働いてくれるからといって翌月時給50円あげてくれた。
時給50円上がると手にするお金が大きく変わるということを恥ずかしいがこの時体験して初めて実感した。

世間の人はこうして働いて、働いたお金で好きなことをしたり家庭を持つんだと遅まきながら学んだ。

豆腐製造と帯同キャディをしながら過ごした時間は、私の人生の中でも大きな体験だったと今でも思っている。

26キャディをしての学び。そして次の選択

帯同キャディという経験もゴルフコーチとして大きな強みになっている。

研修生時代は師匠の考えるゴルフ哲学に他の情報が入って混乱することを避けるためにゴルフ雑誌もゴルフ中継も見ることを禁止されていた。

しかし、帯同キャディの仕事は選手のサポートをすること。
帯同する選手が練習している後方でずっとその選手のスイングを見ることになる。

ずっと見ているといいボールが出るかミスショットになるか、何となく見えてきた瞬間があった。
切り返しとインパクトと出球が一致するかしないかというのをこの時、プロのスイングを見て覚えたことは大きい。

マネジメントも自然と二人の帯同キャディを務めて身につけていったと思う。

二人のプロは飛距離も持ち球も違う。
攻め方や考え方も違う。
またどういう時に心がざわついたり普段と違う行動を取るのかというのも間近にいたからこそ経験できた。

選手は自分を信用しているが迷う時もある。

キャディとの相性が成績に影響することは私も経験していたのでキャディという存在は大きく、その選手が気持ちよくラウンドできるようにサポートするのが役目だと思っていた。

選手が迷った時、何度か私が助言したことでバーディに繋がったこともあった。

選手が苦笑いを浮かべながら
「あなたがこっちがいいと言ってくれたお陰でバーディになったね」
とねぎらってくれたが私は
「バーディを取ったのは選手の実力、ミスした時はキャディのせいにして」
と選手に言っていた。

こうして選手の気持ちを盛り上げていくのが自分には向いているかも?と裏方の仕事が楽しいとキャディをしながら思っていた。

シーズンを終え、来季のQTの試合も依頼を受け帯同することになった。

トーナメントと違い上位に入らなければ来季の出場権は得られない。
責任は重い。
気も重い。

一度は断ったが帯同キャディを引き受けた。

結果はトーナメントの出場権は得られなかったが、下部ツアー全試合出場権を得ることはできた。

選手からお礼の言葉をかけられた時、
「人のサポートをこのまま続けるのか?それとも、もう一度選手としてロープの中を目指すのか?」
という想いが自分の心の底から湧いてきた。

イップスという症状を抱えながらもう一度再起をかけるにはどうしたらいいかと考えた時、もう一度原点に戻ろうと思った。

当時東松苑の支配人をしていた中島和也プロに、働きながら練習をしてもう一度QTを目指したいから3年だけ東松苑で面倒を見てもらえないか相談した。

和也プロは
「なんでもっと早く俺に相談してこなかったんだ。社長に頼んでみる」
と協力してくれた。

春のQTが終わってから話が急速に進み、初夏には栃木に家を探しにいっていた。


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