バヤシの履歴書 vol.4

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13 試合の流れを読め

三人揃って東松苑からプロゴルファー誕生か、ということと、テスト会場が遠方で現地で練習ラウンドができないという理由で、篤志社長が栃木の名門コースでラウンド練習し、試合運びについて色々と教えてくれた。

その一つが日光カンツリー。
練習ラウンドの帰りに「日光東照宮」に寄ることを篤志社長が提案して三人揃って絵馬を描いたことを思い出す。
絵馬を書いて初めて、この日が「平成八年八月八日」ということに気づく。

そしていよいよ2回目のプロテスト。
会場は三重県桑名市にある「多度カントリークラブ(現:東建多度カントリークラブ・名古屋)」

97年以降プロテストの合格ラインが変更になるという話が出ていたので今年のプロテストで絶対合格すると根拠のない自信を持って現地入りした。
96年までは三日間トータル12オーバーまでの選手がプロテスト合格だった。

練習ラウンドで篤志社長と立てた戦略通り攻めて、初日は4オーバー。
そして2日目、71・トータル3オーバー。
最終日9打の余裕があるとはいえ、前年の苦い経験が頭をよぎる。

最終日前夜、篤志社長からのアドバイスは、
「いいか、明日は試合の流れを読め。今自分に風向きが向いているのかどうかを読むんだ。流れが来ていない時は耐えどき。風向きがお前に向いていると感じたら一気に攻めていけ」

そう言われて最終日、最終組の一つ前の組でスタートした。

前半同伴者の一人が勢いに乗ってプレーしていた。
私のゴルフも前半悪くはなかったが、勢いは自分にないと判断し、勢いに乗っている人についていけば上位で通過できるだろうと、結構冷静に試合の流れを見ていた。

ハーフターンで篤志社長に
「流れはどうだ?」と聞かれ、

「一緒に回っている人に流れがあるように見えます。でも自分も悪くないのでこのままついていきます」
と言って残り9ホールのスタートに向かった。

現在の異常気象ほどではないが、96年の8月中旬も暑かったはず。
しかし集中していたため不思議と暑かったことを覚えていない。
この時、私を遠くから見ていた母が
「あなた茹でタコみたいに真っ赤な顔していたけど大丈夫だったの?」
と後から心配されるほど暑かったらしい。

後半、スタートホールでボギーを叩いたが次のホールをパーで凌いで落ち着きを取り戻す。
周りを見ると同伴者の二人がバタバタと崩れ始めた。

「最終日合格ラインが見えてくると誰でも緊張する。合格ラインも気になる。プロになれるかどうかがこの9ホールで決まるんだ。動きが悪くなってもおかしくない。ついていくのはやめて自分のゴルフに集中。」
そう自分に言い聞かせた。

集中してゾーンに入るという言葉を聞くが、最終日の後半の9ホール
私はまさにゾーンに入っていたと思う。

ラウンド中に自分との対話も多かった記憶がある。

「あれ、今あの人ボギーになったからスコア並んだかな?」
と思うと途端に自分もミスが出る。

「いかんいかん、邪念があるからミスをするんだ。流れを読んでチャンスを待とう」
そう思って自分のゴルフに集中するとバーディがくる。
バーディが先行した時、全体の流れを読んでる自分がいた。

「後ろの最終組もそんなにスコア伸ばしてきてないだろう。もしかするとこのままスコアを伸ばしていけたらトップを狙えるかも?」
と合格ラインを気にして萎縮するというより上位を視野に入れてゴルフをしていた記憶がある。

14 最終ホールPar4

今回大きく左右したのはパターが3日間好調だったこと。
特にスライスライン。

東松苑で一人練習していると篤志社長が
「このパター使ってみたらどうだ?」
とハワイから持って帰ってきたファットレディという「かまぼこ型」のパターを貸してくれた。

そして
「お前は、はじめから右に出てラインに乗ってないからこうしてみな」
とアドバイスをもらいスライスラインの出だしで右に行くことが減った。

その成果が出たのがプロテスト最終日。
6つのバーディーが全てスライスライン!
途中アプローチが寄らなかったが、長いスライスラインが入ってパーセーブ。
アドバイスとパターが功を奏した結果となり、そのパターは今でも大事に保管している。

18番ティに立った時、合格ラインに10打の余裕があった。
打ち下ろしの少し長いPAR4。
グリーン右に池がある。
まさに去年と似たようなシチュエーション。
脳裏に去年のことがよぎる。

「池に2回入れても通る。3パット、4パットしても通る。大丈夫。」
そう自分に言い聞かせてドライバーを気持ちよく振り抜いた。
会心の当たりだった。

しかし誤算はアドレナリンが出て飛びすぎたこと。

練習ラウンドや初日、二日目はいつもロングアイアンで打っていたがセカンド地点に行ってみるといつもの辺りにボールがない。

「まさかOB?池?」
フォアキャディさんが手招きをする。
ボールは遥か前まで転がっていた。

「ここから打ったことがないから何番で打てばいいんだ?」
「左足下がりか、嫌だなー。右には池がある。池に入っても…池の横から打てばまだ合格ライン内だな」
そう思い打ったボールはピン横5〜6mのところに乗った。

このセカンドショットを打ち終えてはじめてプロテストに通ったんだなと実感した。

この時グリーンサイド見えた研修生二人の佇まいからプロテスト合格するのは自分だけだとわかった。
ホールアウトしても心から喜ぶことができないなと感じた。

3打目はその日絶好調のスライスライン。

「入るかもしれない。入ったらトップに立つかもしれない」

そういう感覚があり、いい感触で打つことができた。
最終ホールはバーディーフィニッシュ。

結果は、初日76、2日目71、最終日70。 三日間トータル1オーバーで2回目のプロテストを終えた。

15 トップ合格!

フィニッシュした後、私の反応が薄く、ピンを持ち池の方を向きうつむいていたので私の関係者は私が受かったのか落ちたのかわからない。

全員がホールアウトすると同伴者の二人は自分たちの関係者に向かってガッツポーズを取った。
その関係者たちから大きな歓声と涙声が聞こえる。
マスコミはその感動的なシーンを明日の新聞に載せるため追いかけていった。

一方、私はというと…
下を向いてトボトボと篤志社長や母たちの輪の方へ向かう。
マスコミもこちらには見向きもしていない。

社長から
「おい、どうだったんだ?スコアは?いくつで上がったんだ?」
と大きな声をかけられ、ようやく右手の人差し指と中指を下に向けた。

「何?アンダーなのか?本当にアンダーなのか?トップじゃないか!」
と社長が興奮して話すと
母と一緒に応援に駆けつけていた叔母が泣き出した。

篤志社長からスコアを出す時に数え間違えをするなよと言われて何度もスコアを同伴者と確認した。

スコアを提出してロッカーへ向かうとき入口で母が待っていた。

研修生の二人が受からず私だけが合格したことで喜べる状況じゃないことを察していた母は
周囲に見えないように握手を求めてきた。
そして小さな声で「おめでとう」と力強く私の手を握った。

クラブハウス内に掲示板があり、合格者には選挙当選のような赤い花が貼られていた

16 手放しでは喜べなかったトップ合格

最終組が上がって結果がわかると私はマスコミに囲まれた。

無名選手の若林はマスコミの中ではノーマークだった。
しかしリサーチすると中島巌の最後の弟子でプロテスト受験2回目。
しかもトップ合格。

新聞のトピックには十分な内容となり、次から次へと質問攻めにあった。

翌日のスポーツ新聞各社の裏一面に載ったことで高校の同級生たちの間では、音信不通になっていた若林が本当にゴルフをしていたんだと話題になっていたらしい。

私がプレスインタビューを受けている間に裏でもう一つのドラマが繰り広げられていた。
篤志社長は受かった者より受からなかった二人のためにこの日栃木に帰すことを許さなかった。

落ちた二人は
「こんな思いをしてここに居たくない、帰りたい」
と副社長に懇願したが、
「来年のあなたたちのためにも帰す訳にはいかない」
と押し問答があったらしい。

プレスインタビューの後、合格者全員の記念写真、新聞各社の写真撮影やインタビューと、落ちた人間が待つには長すぎる時間が流れた。
全てが終わって名古屋のホテルへ戻ると三人一緒の部屋が取られていた。

先に帰省した篤志社長からホテルの部屋に電話があり
「お前たちは三人でずっと苦楽を共にしてきたはずだ。辛いかもしれないが今この悔しさから目を背けると来年また同じ結果になるからちゃんと三人で一緒に過ごせよ」と言われた。

この険悪な空気の中、夜を過ごすには辛すぎる。
私はある人に助け舟をお願いした。

その方は師匠が健在の時から特別許可をもらって一緒に練習していたお母さん的存在の東松苑のメンバーさん。
応援に駆けつけていて、この状況をよく理解していたので一緒にいることを快く引き受けてくれた。

そして実技テストの翌日に行われるルールテストに合格し、私は晴れて女子プロゴルフ協会会員となった。

17 戸惑いのプロ生活をスタート

96年のプロテスト合格者は30名。
トップ合格の特典として9月に開催される日本女子プロ選手権というメジャー大会9試合の出場権が与えられた。
その大会が私のデビュー戦となった。

また、この年からルーキーキャンプというものが開催されるようになった。
プロテスト合格者がギャラリー整理、スコアラーなど大会の裏方として大会をサポートする。
プロゴルファーが戦うトーナメントをたくさんの人が支えていることを新人に教育するために協会が取り入れたことでも注目を集めた。

プロテストが終わりホッと一息入れる間もなく、ゴルフ場に取材の連絡が入ったり、これから出る9試合の宿泊先の手配や交通手段の予約などを全て自分で手配しなければならない。

そのための車も用意しなければならなかった。
当時は携帯もナビも普及していない時代。目的地に到着するのも一苦労だった。

デビュー戦に向けて周囲の環境が大きく変わり出した。
その中で変わらなかったのは不合格だった二人の研修生の態度だった。

二人とも年上で、プロになったからといって関係性は変わらない。
ゴルフ場での仕事や家事分担は以前と同じ。
しかも二人とも口をきいてくれないという相変わらず険悪な雰囲気のまま時は過ぎていった。

プロデビュー戦が近づいても私の心は沈んだままだった。

そんなある日、話があると呼び出された。
「私たちも来年のプロテストに向けて始動しなければいけないし、あなたに構っている時間はないの。でも誰も知り合いがいないプロの世界に一人で行くのは心細いと思うから3試合だけ二人であなたのキャディバックを交代で担いであげる」
と帯同キャディを買って出てくれたのだった。

三人で一緒に初戦を戦ってくれるという言葉が嬉しかったし心強かった。

新人が帯同キャディを連れてプロデビュー戦に出場することも異例だったらしく会場でも目立っていた。


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