バヤシの履歴書 vol.3

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8忍び寄る病魔

午前の練習が終わり練習場の控え室でみんなで昼食を食べているところに社長が現れ、
「これからちょっと病院に行って切ってくる」と言った。

なんの事かと思っていたら腸にポリープができたから知り合いの医者に切ってもらってくると言う。 その翌日切ったポリープを見せてくれた。
「ポリープってこんな感じなのか?」 と思ったが年上の研修生の一人が練習の帰りに本屋でたくさんの癌に関する本を購入してきた。
なんだか難しそうな顔をして読みながら 「社長が見せたポリープが…悪性じゃなきゃいいけど…」と言っていた。
社長は改良工事中のコースと予選会を控えた研修生が心配で、ポリープを取ってすぐ病院から無理をして帰ってきてしまったらしい。

社長はよく 「双子のプロゴルファーを誕生させること」 「小児麻痺を抱えたプロゴルファー誕生」 「ゴルフ初心者がプロゴルファーになること」
これはプロを目指す子どもたちに夢を与えることだと言って、5人揃ってプロになることを常々語っていた。
しかしこの頃、双子の二人が辞めることを決意し東松苑を去っていき、別々に一次予選会に臨むことになった。 双子の二人と同じ会場で一次予選会を受験し5人揃って上位で通過した。
社長は二人の決断を止めなかったが、彼女たちが去った後
「同じ釜の飯を食った仲間だから他所へ行っても仲良くしてやりな」と言っていた。

一次が終わり翌年三月には二次予選会が5ヶ月にわたって始まる。
そんな時、たまたま社員用のトイレに入っていると研修生に気づかなかった社長が
「チキショーあっちもこっちも痛くなりやがって」 と言って、湿布を事務員さんに貼ってもらいながら言っていたのを聞いてしまった。
当時東松苑の改良工事は社長自らブルトーザーに乗り作業を進めていた。 ブルトーザーはかなりの振動があるので術後の体には堪えると、余り弱音らしいことを言わない社長が珍しくこぼしていたのでよく覚えている。

9 師匠との別れ

体が大きい社長の手はグローブのように大きく太い手だった。 頭を叩かれた時に痛かったのを覚えている。

いよいよ自宅療養に入ると社長が決めた時、最後に1番ホールで私たちのラウンドを見守ってくれた。 その時私はドライバーショットを右に曲げた。
社長はいつものように 「お前さんはな、こうなっているからダメなんだ」 と頭を叩こうとした。 私は叩かれると痛いと思い身構えたが、その時叩かれた衝撃は余りにも微弱でその感触は今でも鮮明に残っている。

自宅療養に入った社長から練習場に電話連絡で一人一人にアドバイスをくれた。 実際に見てもらえずこのままでいいのか不安になる時もあったが、今まで教わったことを残された3人で話し合いながらいつものように練習をしていた。

そんなある日社長の側近の方の計らいで、研修生に社長の薬を病院に取りに行き自宅まで持ってきて欲しいと頼まれごとをされた。
社長の寝ている寝室に薬を持っていくと布団の上に着物姿で座った社長がこちらを向いて一言、
「いいか、よく聞いておけ。自分の額に一流という文字を刻んで努力しろ。一流になりたければ一流の努力をしなければダメなんだぞ」

それが社長からもらった最期の言葉となった。

3月13日、社長が亡くなった。
寮に戻って就寝する頃、亡くなった報せを受け信じられない気持ちで社長宅へ3人で行った。

あの社長が亡くなる? 居なくなる?

現実を受け止められず呆然としていると背後から常幸プロがこう言ってくれた。
「親父はお前たちがプロになることを願っていると思うから、俺たち兄弟が力を合わせて協力するから頑張れよ」
その言葉通り、社長が亡くなってから常幸プロの千葉の専用練習場(練正館)で女子禁制にも関わらず私たち3人は特別オフトレに参加させてもらい、男子プロや男子研修生に混じって同じメニューをこなして二次予選会に備えた。 また次男の篤志二代目社長、和也プロも忙しい合間をぬって指導してくれた。

10 亡き師匠の願い!

プロテスト初挑戦 師匠が亡くなってすぐに慌ただしく二次予選会が始まった。
当時は1ヶ月に一回の予選会が5ヶ月間開催され、 地区の代表上位20名〜30名が本戦のプロテストへ進出できた。
残された3人の研修生のうち私を含め2名がプロテストに進めることになった。

プロテスト初受験もさることながらゴルフを初めてから7戦しか試合を経験していなかった私。 何をどうしていいか分からずとにかく全力投球するしかない。
プロテストまでの1ヶ月弱の間、毎日緊張していたためテスト直前に高熱を出した記憶がある。 体調不良のままテスト会場の千葉へ向かい練習ラウンドをこなした。

この時使用していたボールには東松苑の姉妹コース、マカレイGCのロゴが大きく入ったものだった。
師匠の想いがこもったゴルフ場のロゴ入りボールをお守りに初日、2日目と順調にラウンド。 最終日に70台で回ることができればプロテスト一発合格というところで最終日を迎えた。

この時持っている技術や経験値は恐らく参加選手の中でも一番少なかったと思うが、
「自分は中島巌にゴルフを教わってきたんだ。絶対受かる、受からなければ師匠にいい報告ができない」 と、弔い合戦の武士の様な気持ちで回っていたと思う。

最終日の最終ホールPAR4。
このホールがダブルボギーになったとしても合格できるというスコアで最終ホールを迎えた。 18番グリーン奥には関係者や保護者が上がってくる選手を迎えるために、グリーンを囲むように遠くからティグランドの方を固唾を飲んで待ち構えていた。

グリーン右には18番と9番ホールを分けるように大きな池が待ち構えている。 だが、この池は練習ラウンドでも飛距離が届かなかったため警戒はしていなかった。 逆に左手前にある貯水池の方が気になっていた。 ビビって体が止まれば左池が怖い、そう思い、思いっきりドライバーを振った。

するとボールは右側のホールを隔てる木々の方へ飛んで行った。

11 プロテスト会場の魔物

右池は距離的にも大丈夫、木がスタイミーになるかもしれないが打てないことはないだろうとセカンド地点へ向かった。

池の所には二人のフォアキャディさんがいて、池の周りや木の中を探している様子が見えたので安心していた。
しかし、そばまで行ってみると 「ボールが途中から見えなくなって見失ってしまって…」とフォアキャディさんが言う。 もう一人も「池に入った音はしなかったんですけど…」と言い、 同伴競技者の二人はこのホールで合否が決まる状況で、私のボール探しなんかしてる場合ではない。

自分の組についてくれていたキャディさんが 「このマークが付いているボール使ってましたよね?」 とマカレイのロゴが入っているボールを池から探し出してくれた。 確かにマカレイのボールを使っているのは私の他にもう一人だけ。
通常、自分がメインで使うボールナンバーと暫定球用に違うボールナンバーを分けて、一つずつカートに入れていた。 しかしその時使っていたボールナンバーが自分の記憶では不確かだった。

キャディさんが 「このボールでしたよね?」 と何かを訴えるような目で私の目を見て聞いたが、 ティショットを打ったボールがその番号か?と聞かれると私は自信がなかった。
ボールを捜索する時間の制限がきてしまい競技委員から打ち直しを伝えられる。
グリーンサイドにいるギャラリーもざわつき、後続組も18番ティエリアに何組か待機している。

この時頭が真っ白になった私は新しいボールとドライバーを持って18番ティエリアまで駆け足で戻った。 そして打ち直したボールはまた同じ右方向へ。
今度は見失わないようにみんながボールの行方を見守っていた。 するとティエリアまでグリーンサイドのざわめきが聞こえた。

「今度は本当に池に入ってしまったかもしれない」
「ロストボールのペナルティと池ペナルティで次は何打目になるんだ?」


また駆け足でセカンド地点に向かった。 池処置をして残り距離もわからないまま、確か9番アイアンで打ったと思う。 グリーン奥に辛うじて乗ったものの3パットをして1回目のプロテストは終了した。 結果は最終ホール2打の余裕を残しながら8を叩いて2打足らずで合格ならず。

プロテスト会場には魔物が居ると聞くが本当にドラマチックな終わり方だった。
意気消沈してプロテストが終わってから1ヶ月ほどクラブを持つ気になれず、ゴルフ場には行くものの練習をサボっていた。
そんな私に篤志社長が 「親父が1回のプロテストで合格したら天狗になるからまだ早いって言ってボールを隠したんだな。今年一年また死ぬ気で頑張ってみろ」 と言ってくれたその一言が、 なぜか妙に納得できて来年のプロテストを目指してまた頑張ろうと思えた。

12 2回目のプロテストが始まる。

前年度プロテストで最終日までいった私ともう一人の研修生二人は一次予選会が免除された。 残る一人が一次予選会を通過すれば三人揃って5ヶ月間の二次予選会に進める。
一次予選会を挑戦する者がいるため プロテストが終わってすぐに三人で来年のプロテストに向かっての調整が始まった。

常幸プロが開催するラウンド会に男子プロや研修生に混じって参加したり、 篤志社長とのラウンドで指導を受けたり、 和也プロが東松苑に練習に来た際は直近でプロの練習を見せてもらった。
プロテスト挑戦2年目は師匠が亡くなった時に常幸プロが 「親父の夢だから俺たち兄弟がお前たちのプロ合格を協力する」 と言ってくれた通り、周りの方達や会社も一丸となって3人のプロ合格を後押ししてくれた。
二次予選会が始まると私以外の二人は順調に成績を残し、上位で最終予選の7月を迎えていった。 私は前年度のプロテスト最終日の後遺症なのか、中々成績が残せず苦戦を強いられる。

7月の二次予選会最終月は、以前女子トーナメントを社長と観戦したあの那須小川GCだった。 私以外の二人は6月を終わった時点で上位者として最終プロテスト合格ラインに達していて、7月の予選会を棄権さえしなければ本選に進める。
一方私は、70台で回らなければ最終へは進めない厳しい状況。 この日も決して調子は良くなかった。
アプローチやパターで拾って拾ってなんとか凌いでいた。

那須小川の最終ホールはティショットが打ち下ろしでグリーン手前にクリークが流れる名物ホール。
トーナメントでもよくドラマが起こるエキサイティングなホールである。

ティショット、ドライバーで200y飛ばせばクリークを越える。 残りはウェッジを手にすればチャンスは広がる。 一方、クリーク手前まで刻んで打ち上げの二段グリーンを100y前後打っていば、パーセーブできる安全策もある。

この時頭によぎったのは、前年のプロテストの最終ホール。
ロストボールで元の18番ティ位置へ戻る際、ドライバーを持って駆け足で行ったことについて和也プロに、
「親父からはどんな時も攻めるゴルフをしろと教わったと思う。でもな、狭いホールをドライバーで打つことは攻めるゴルフじゃなく、レイアップ(刻む)することも攻めるゴルフなんだぞ」と教わった。

確かに師匠からはレイアップは教わってこなかった。
プロテストでの苦い経験を活かして、この那須小川の18番はアイアンでクリークの手前に刻み、 セカンドショットでグリーンを捉えて無事上位で二次予選会を通過した。
結果、他の二人は最終ラウンドが消化試合ということもあり、あまりいいスコアではなく私の方が上位になっていた。

この試合について私が篤志社長に 「スコアは良かったけど今回ほど苦しい状況でラウンドしたことはなかった」 と話すと、篤志社長が 「ゴルフは調子がいいからいいスコアになるんじゃないぞ。調子が悪くても苦しい状況でもスコアを作っていくことが大事なんだぞ」 とプロテストを見据えて教えてくれた。


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