バヤシの履歴書 vol.2

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3 突然の入寮

年明けの面接から何も連絡がないまま卒業し周囲を心配させたが、5月に入り突然来るように連絡があり急遽、ゴルフ場へ両親と向かった。
社長は、面接の時とは違い優しい笑みを浮かべながら

「なんだ、親と一緒に来たのか?改札で親に見送られて一人電車に揺られて修行の道に入るというのも思い出になったのに」
と冗談混じりに話した後、
「寮に入る準備してきたか?」
と聞かれ、準備をしてないことを伝えると
「それなら今から帰って家族と最後の晩餐をしてこい」
と言い、オープン前の改良中のコースへ消えていった。

私たちは慌てて地元の相模原へとんぼ返り。
連絡を受けた親戚が祖父の家に集まり、私の門出を祝って本当に最後の晩餐会を開いてくれた。

みんなの前で挨拶を促された私は、その場の雰囲気で
「プロになるまで家には帰りません」と言ってしまった。

その時祖父に言葉を書いてもらった色紙は今でも大切に飾っている。

それまでのゴルフ経験といえばラウンド数3回、伯父に何度か教えてもらった程度。
無謀とも言える挑戦を今の私と同年齢の両親がよく後押ししてくれたと思う。

翌日はちょうど19歳の誕生日。
早朝、両親の運転する車で再び栃木を目指して出発した。

栃木の景色も3回目。道路より下に田んぼが広がり高いビルなどない。当時、寮のあった佐野にはマックが1軒もなかった。
マックもないこんな田舎に置いていかれて自分は大丈夫だろうか?
もう後戻りできないと不安になった。

社長に挨拶をすると私が持参したレディースクラブを見て
「お前さんは一流のプロゴルファーを目指すためにここへ来たんだろ?その女性用のクラブは要らないから倉庫にしまえ」と言われ、
暑い中バイトで買ったクラブはそのままお蔵入り。代わりに男性用のメタルクラブを渡された。

10月のゴルフ場オープンまで練習よりオープンに向けてのコース整備作業が主な仕事だった。

社長曰く「基礎体力をつけるための作業と思え」

部活が終わって増えた体重もオープンの頃には9キロも減っていた。
オープンを迎える頃からは小さな練習場での打ち込みも開始され、少しずつゴルフの指導も始まった。

4深夜、母への電話

ゴルフ場のオープン後、付帯施設の屋外練習場もオープン。
設備も当時では最新の全打席オートティーアップ式の練習場だった。

その練習場の隣に研修生専用打席が別棟で建てられ、一年364日、元旦以外は毎日朝から日が暮れるまで練習に明け暮れた。

研修生の1日は朝5時から練習場の球拾いから始まる。
その後、
研修生専用アプローチグリーンの芝刈り。
8時から1時間アプローチ練習。
9時から正午まで練習打席で打ち込み。
昼食後、胃を休めるために1時間半アプローチ、パター戦。
お客様のスタートが終わるとバックを担いでラウンド。
寮に帰って社長考案のトレーニング機器でトレーニング。

入れ替わりがあるものの常に10数名の女子研修生がいたが、時が経つにつれ一人辞め二人辞め…5年目には5人の研修生しか残らなかった。

超初心者で始めた私はゴルフが上手い訳では当然なく、さらに1年遅れで入寮した双子の後輩にスコアも気迫も負けていて、段々と追い詰められていった。

このまま続けていく自信がないと思い、家へ連絡することは禁止されていたが、みんなが寝静まった夜に内緒で電話をかけた。

母に泣き言を言うと意外な言葉が返ってきた。

「お前は家を出る前の日、親戚みんなの前でなんて言ったの?」

「プロになるまで家には帰らないといって送り出してもらったんじゃなかった?どの面下げて地元に帰るつもり?帰れないでしょ?そんな中途半端な気持ちで帰ってくるなら家には入れない。お前の帰る家はないから」
と電話を切られてしまった。

実はこの時、色紙を書いてくれた祖父が癌の宣告を受けて大手術をしたばかりだった。
電話口で涙を堪えて電話を切った母を見て、叔母が
「お義姉さんを見てて辛かった。よく帰ってくるなって言えたなって、私も横で泣いたわ」
と後になって聞いたが、

この時の私は母からも見放された今、社長に食らいついてプロにならなければ人生終わると思い覚悟が決まったのだった。

5覚悟を決め、泣くことを止めた

その日以来、練習で怒られても泣く事は一切しなくなった。
怒られても、怒鳴られても歯を食いしばって食らいついた。

ある日社長から
「今ここに残った5人はどんなことをしてもプロになれよ」と言われ、
ようやく社長のお眼鏡にかなった!
見てもらえる!と、
認めてもらえた手応えを感じ一層努力をしたのを思い出す。

日常の練習の中でもプロテストという言葉や大事な時期という意識が出てきて、ピリピリした緊張感のある毎日だった。

そんなある日祖父の訃報の報せが届く。
「大事な時期でも大切な人との別れはちゃんとして来い」
という社長の計らいで1日だけ帰宅を許可された。

免許を取得してから栃木の広い道しか運転していなかった私が、社用車の高級車を使い首都高を運転して5年振りに相模原へ帰省した。
都会に近づくにつれ建物が高く圧迫感があって怖かった記憶がある。

「ショットやスコアの良し悪しに一喜一憂せず常にポーカーフェースでいろ」
社長の教えは、ゴルファーとしてコースでは冷静に対処できるよう振る舞うというのが必要条件であった。

その師匠の言葉を忠実に守るが故に祖父が亡くなった姿を見ても涙が出なくて困った。
この時のことを5つ上の従姉妹から
「この子は泣くことも許されず厳しい世界で頑張っているんだな」と感じ
「悲しい時は泣いてもいいんだよ」
と声をかけると、声を殺して大粒の涙を流していたことを今でも覚えてると話してくれた。

そして翌朝、祖父の葬儀には参列せずに栃木に戻り、練習に明け暮れる日常に戻った。

プロの試合は雨でも大会が中止にならない限り開催される。

「悪天候の時ほど周りはスコアを崩す。そういう時こそ自分のゴルフができるように」
と言われ、大雨でもラウンドした。

雨の時に着るレインウエアについても大事なことを教わった。

高価であっても水はじきのいいレインウエアを選べ。
スイング中に水滴が気になるから小さなタオルを常に持っていろ。
濡れたくないとリズムが早くなるから意識してゆったり行動しろ。

強風のラウンドも大事な練習の一つだった。
風向きの読み方、クラブ選択、ボールの高さのイメージ…

書き出してみると打つという技術以外のことを日常の練習でたくさん教わってきたことに気付く。

社長は常々
「社長はただプロになるような奴は要らない、一流のプロゴルファーを育てるためにお前たちに朝から晩までゴルフをできる環境を作っているんだ。甘ったれた考えはするな」と言っていた。

プロテスト予選会の時期が近づくにつれ一層厳しい指導となっていった。

6破天荒な師匠の教え

朝から晩までゴルフができる恵まれた環境。
それは社長の一存で研修生たちの環境が守られていたものだった。
常々、甘えや不真面目さはメンバーさんや社員の人たちに申し訳ないということを聞かされていた。

その一方で社長からこうも言われた。

「プロの世界では相手を陥れようと声をかけてくるものもいる。話しかけられる隙を与えるな」

それは練習をしているときも同じ。
メンバーさんから声をかけられるということは集中していないと同義だった。

わざわざお客様から見えるアプローチ場で練習させることもあった。
応援しようと声をかけてくれる人もいれば、軽い気持ちで声をかける人もいる。

社長の意図を汲んで練習している研修生5人は鬼気迫る姿でひたすら練習に没頭し、お客様の声には反応しない。

「なんだここの研修生は!耳が聞こえないのか?挨拶もしないで」
と怒り出す人もいた。

異常、非常識ともとれるが社長はよくこう言っていた。

「ゴルフでもどこの世界でも谷町やスポンサーはいる。だがな、本当に選手が活躍するために応援してくれる人は少ない。お金を出してくれる人に引っ張り回されてダメになった選手をたくさん見てきた。お前たちはそうなるなよ」

この練習はプロとなって外の世界へ行った時にブレないで自分の道を歩けるようになるための訓練と社長は位置付けていた。

7束の間の楽しいひととき

プロテスト一次予選会に登録すると練習ラウンドをこなすため、近隣のゴルフ場へ社長自ら同行してくれた。
外の世界へ行くには周囲からどう見られるか?というのもプロになる大切な要素だと社長は言った。

これには楽しかったと思える懐かしいエピソードが3つある。

1つ目は、当時女子トーナメントが開催されていた那須小川GCへ社長の社用車であるキャデラックリムジンで観戦に行ったこと。

リムジンが走っているだけでも目を引くというのにクラブハウスに向かう途中、スタートホールの横で社長が
「お、スタートする組がいるな。ここで停まれ。」と言い車を停めさせた。

そしてリムジンから上下真っ白いスーツを着た社長とその後ろに同じく白い上下の練習着を着た5人の研修生。
カルガモの親子のように歩いていると、それはそれは目立つ。

ギャラリーからもどよめきが起こり、スタートホールにいたプロ達もこちらを向く。

それでも社長が
「見てみな、これがお前達がこれからいく世界だぞ。よく見ておけ」
と言われれば全員が
「はい」
と言って周囲の目など気にしていなかった。

2つ目は、社長自ら5人を連れてウエアを買いに連れて行ってくれたこと。

紺のズボンに白いシャツが清楚でいいと社長が言うので5人お揃いで購入。
クラブもウエアも同じだったので行った先のキャディさんが困っていた。

最後は、髪を切りに行く時間があれば1球でも球を多く打てと言っていた社長が髪の毛を美容院でさっぱりしてこいと言う。
それまで美容院に行く時間などなかった5人の髪は腰まで伸びていた。

すると社長が
「その伸びた髪は修行の証だからしばらく取っておけ」
と言うので美容院へ行く前に枝切りバサミで髪の結び目からバッサリと切り、
ザクザクの切り口になった髪の若い女性が急に5人まとめて美容室へ行き、お店のスタッフの方を驚かせた。

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