バヤシの履歴書 vol.7

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27 古巣ゴルフ場で、はじめての社会人生活。

人生で初めての一人暮らし。

社会人として正社員雇用が初めてだったのでまず調べたのが家賃。
給料の1/3に家賃は抑えた方がいいと何かに書いてあった。
まだ働いてもいないのに和也プロにどのくらいの給料がもらえるのか聞いてしまう辺り、鼻息が荒い。

配属された部署はゴルフ場付帯施設の屋外練習場。
和也プロから
「本当はマスター室に入って頑張ってもらおうと思ったが空きがなく練習場になった。すまないが街の練習場並みにしてくれればいいから頑張ってくれ」
と申し訳なさそうに私に言った。

だが、私はどこに配属されようが関係なかった。

目的は3年でQTを目指すために仕事をしながら練習する時間が確保できること。
それがあれば満足だった。

配属された練習場は自分が汗を流した時とは違い機械の不具合で使えない打席が多かった。
一見綺麗だが打席後方のソファーは埃まみれでお世辞にもいい練習場だとは思えなかった。

私が配属されて手始めに着手したのが練習場の整備だった。
天然芝の打ち下ろし練習場。

景観もよく気持ちのいい練習場で私がここで毎日汗をかいてプロを目指した場所。

また師匠がゴルフ場のオープン後に手がけた場所で、師匠の想いも知っていた私はここに配属されたからにはこの練習場を「街の練習場」以上にしようと思った。

私の他にコース管理課から再雇用された人が配属されていた。
はじめは私の行動をたしなめるように
「そんなに頑張っても無理だよ。広すぎるし、整備をするには費用がかかる。上にお願いするのは俺たちにはできないよ」
と鼻から諦めた感じで、余計なことはしないで大人しくしていてくれという雰囲気が漂っていた。

だが、大人しくしている訳にはいかない現状を目の当たりにした。

オートティアップの機械が40打席近くあるのに使える打席が数打席だけ。
スタート前に練習にきたプレーヤーが困っている。
練習にきたお客様が球が出ないからとボール収集場所のボールを勝手に持ってきて芝の上から打っている。
天然芝の練習場の草が伸び放題でボールが沈んでボール拾いができていない。

この現状を無視して穏便に大人しく仕事の時間を過ごして練習だけできればいいとは到底思えなかった。
研修生時代に芝刈りや草の手入れを師匠から教わっていたので、コース管理課へ行って工具を借り、場内整備を一人で始めた。

はじめは止めればいいのにと遠目に見ていた再雇用のおじさんも段々と手伝ってくれるようになってきた。
この人はとても器用な人で機械にも強かった。
仕事も丁寧で真面目な人だった。
ただ交渉と揉め事が苦手なんだと感じた。

修理に必要なものがあれば私が親会社のゴルフ場に稟議書を持って交渉に行く。
社会人になって初めて稟議書作成、業者との交渉を覚えた。
少しずつ場内整備が進み、配属3年で売り上げが入社時の3倍近くになった。

この時私は35歳。
社会人としては遅いスタートだったが、ここで自分の強みを活かして自分の存在意義を感じた体験でもあった。

28 はじめてのコーチという存在。

一方ゴルフは練習時間と練習環境は恵まれていたが自分のスイングの立て直しに一人で向き合うには無理があった。

そこで地元相模原にいた時に知り合ったクラフトマンにゴルフの指導をお願いした。
今では地クラブやリシャフトをするクラフトマンが専門店を構えて活躍する時代だが20数年前はまだまだ少ない存在だっが、ワゴン車を改造して工具やクラブを積んで地元の練習場に来ていた。

私のイップスのことを理解した上でクラフトマンの目線から役に立つことがあればと指導を了承してくれた。

最初のレッスンは私の状態を見るために人目につかない米軍基地の中にあるドライビンレンジだった。

「アイアンでハーフスイングしてみて」
と言われて打ってみると
「プロでここまでスイングができない人は初めてだよ。大変だったね。
俺も指導者じゃないからどこまでできるかわからないけど若林さんの立て直しに協力できるよう勉強するよ」
と言ってくれた。

初めてコーチと呼べる人の存在に安心して身を委ねようと思えた時だった。

色々なことが重なりクラフトマンからティーチングプロとしてゴルフスクールを持つことになったコーチが、

「たまたま人がいないからスクールをやらないかって誘われたけどプロゴルファーのコーチをしているって胸を張って言える自分になりたいから資格を取ろうと思うんだ」

とティーチングプロの資格取得に取り組んでその姿を見せてくれたことが私にとってもさらに夢に向かって頑張るモチベーションになった。

二人三脚でQT出場を目指して栃木から月1回レッスンをするために相模原に通った。

トレーニングも取り入れた。

私が東松苑に入社したことで練習場所を求めて同期がよくゴルフ場に来て一緒に練習するようになった。

プロとは少しでも稼げるようになるためどんなことにも貪欲で、同期が自分に対して投資するプロ意識の高さも刺激になった。
彼女は怪我をしたことがきっかけで船橋にあるリハビリステーションに通っていた。

聞いてみると理学療法士が自分の動きの癖を指摘して運動機能改善をしていくからパワートレーニングよりもスイングに役立つという。
私も彼女の勧めで週に1回栃木から船橋に通いリハビリトレーニングを1年近く続けた。

この時は、仕事以外の休みは船橋のトレーニングと相模原でのレッスンに明け暮れ、研修生時代のように目的と目標がはっきりして毎日を過ごしていたと思う。

29 アクシデントが起きる。

そんなある日、芝刈りを終えてコース管理課で芝刈り機のメンテナンス中に着用していた軍手が機械に巻き込まれ右手に大怪我を負った。

機械の力には敵わないと思った。
右手親指の付け根と手首の上の肉が飛ぶ。

痛いという感覚は全くなく、ただ
「ヤバい、このままだと手が持っていかれる」
そう思った瞬間、不思議なことに軍手が手からすり抜け、間一髪で骨は砕けなかった。

たまたま管理課長がそばにいて、すぐ近くの外科に軽トラで連れていってもらった。

その病院の女医さんが部分麻酔で、まず右手首の上を縫合した。

右親指の傷を見て
「お年寄りならこのまま縫合しちゃうけど若いしプロゴルファーだから手のひらはこのまま塞がない方がいいかな〜」と呟く。

「プロゴルファーじゃなかったらこのまま塞いじゃったのか〜」
と突っ込みたくなったが、麻酔されて動けない自分はまな板の上の鯉。

幸運にも手の専門外科で慶應系の病院が、今から搬送すれば手術すると受け入れてくれた。
救急車が到着し担架で搬送しようと診察室の扉が開いた時、和也プロが神妙な面持ちで立っていた。

「ヤバい、仕事中に怪我して迷惑かけてしまった。怒られる」
そう思って謝ると
「ばかやろう、そんなこと心配しないでいい。手の専門の病院に搬送されると聞いたから安心した。後から追いかけるから」

そう声をかけてもらって私は救急車に乗せられた。

たまたま東松苑に来ていたお母さん的存在のメンバーさんが付き添ってくれた。
元看護師のこのメンバーさん、私の怪我を見て痛みを和らげようと面白い話をずっとしてくれていた。

手術までの待ち時間どれくらいの時間が経っただろう。

突然両親が病室に入ってきた。
「何?どうしたの?なんで知っているの?」と聞くと
「和也さんから連絡もらって。びっくりしたけど命に別状ないって聞いて安心したわ」
と母がいう。

後で見舞いに来てくれた和也プロが母に連絡した時の話を教えてくれた。

和也プロが仕事中の怪我を謝罪し、プロゴルファーにとって大事な手の怪我を悔やんで伝えると

「命に別状はないですか?命に別状がなければこれから栃木に行きます。
手の怪我でゴルフが出来なくなるようなら神様がもう苦しまないでいいように出来なくしたんだと諦めがつくでしょう。もしゴルフができるようならまだ頑張れってことですよ」
と言って電話を切ったらしい。

お前のお母さんが言ってくれたことで救われたと和也プロは言っていた。

30 明るい入院生活。

手術が無事終わって麻酔が切れかかっている時、母が
「いてもしょうがないから一旦帰るわね」と言って父と相模原に帰った。
そして翌日母がまた病室に現れた。
関東とはいえ相模原と栃木は一都四県跨いで来る距離。

「心配しないで。大丈夫だから」と伝えると
「手の怪我以外は元気なんでしょ?ちょっと待合室に来て」という。
行ってみると母の兄妹3人が夫婦で来てくれていた。

仲のいい従姉妹も
「久しぶりの遠出があんたの見舞いとは」と笑っていた。

気落ちしていると思ってあえて明るい会話をしてくれたのがありがたかった。

怪我した箇所の肉が上がって再度手術をするまでの1ヶ月半を病院で過ごしたが、お見舞いに来る人が不思議がるほど私は元気だった。

頑張ろうと前向きな時におきる不運もある。
人生いつどんなことが起きるかわからない。
今を全力で楽しんで悔いのない人生を歩もう。

この入院生活で改めてそう思えたことが明るい入院生活になったと思っている。

外科病棟はみんな怪我している箇所以外は割と元気で明るい。

私も医師の回診が終わるとリハビリ室でトレーニングしていた。

トレーニングが終わる頃、お母さんメンバーさんが訪れてファミレスにスイーツを食べに行ったり、那須の別荘にご主人と一緒に連れて行ってくれた時にはベットに「若林外泊中」という張り紙がしてあった。

お見舞いにきてくれた和也プロから「入院患者がどこ行ってるんだ。元気すぎる」と小言を言わるほどだったが、退院した時の握力は「2」までに落ちていた。
右手でコップを持っても落としてしまう握力。

しばらくゴルフはできない。

日常生活を送りながら徐々に体力をつけていき、7ヶ月後のQT出場に向け、
コーチと一緒に開催コースに練習ラウンドに出かけたりレッスンの時間を増やした。

船橋のトレーニングも週1回から2回程度に増やして準備をしていった。

31兄弟子とのラウンド

QTを目指していた時の思い出に常幸プロとのラウンドがある。
東松苑に来ていたので挨拶にいくと
「おう、元気で頑張っているみたいだな。久しぶりに一緒に回るか?」と気さくに声をかけてくれた。

トッププロとならお金を出しても回りたい人はたくさんいる。 しかし私はイップス状態で一緒に回るなんてとんでもないと思い
「すみません、東松苑に戻った理由は、実は…イップスで…人前で…ゴルフができる状態じゃないんです」と やっとの思いで伝えた。

そんな私を見て常幸プロは 「どれくらいお前のイップスが酷いのか見せてみろ。バックを持って1番ホールにこいよ」と笑って言った。

「うっそ!回れないって言ったのにどういうこと?」 と逃げ出したかったが、こんなチャンス滅多にない。
胸を借りるつもりで1番ホールへ行くと、専属キャディさんの2人だけだと思っていたのに、一人のジュニアゴルファーとそのお父さんもいた。

「えー!知らない人の前で恥かくの嫌だな」と逃げたくなった。

ジュニアは世界のトッププロとのラウンドに興奮気味でドライバーを振った。

伸び代いっぱいのジュニアの豪快さが羨ましかった。
そんな私を見て常幸プロが自分の経験を話しながらラウンドをしてくれた。
常幸プロが伝えようとしていることを受け取ろうと自分のショットが終わるとすぐに常幸プロの元へ駆け寄った。

常幸プロが
「俺にもスランプの時があったよ。ドライバーを大きく曲げて同伴者に鼻で笑われたこともあった。でもお前についてるギャラリーはせいぜい家族や知り合いだろ?俺なんて大勢のギャラリーの前だぞ。」と笑って話してくれた。

「よく見てみろ。あの子はプロと一緒に回れて嬉しくて仕方ないって感じだろ?失敗することなんて恐れてないんだよ。でも大人はな、失敗しないようにやるだろ?その違いなんだよ」と、考え方一つで結果が変わることも教えてくれた。

そして「自分のスイングを見つけるために技術的な根拠を探していくんだな」と言ってくれた。

これからの自分に大きな意味があると思った私はサインボールをお願いした。
常幸プロはこの日使ったボールにサインと共に
「今からスタート」という言葉を添え、頑張れよと言って渡してくれた。

今でもこのボールは大事に持っている。


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