バヤシの履歴書 vol.5

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18 デビュー戦、はじまる

デビュー戦の試合会場は新潟の長岡カントリークラブ。
出場選手120名、サポートに入る同期29名、150名近くのプロゴルファーが新潟に集結しているということでマスコミ、TV局など多くの人で誰が誰だかわからない。

会う人会う人に頭を下げながら挨拶した記憶があるが、
入ってはいけないエリアにいってしまったり、
ミーティングで新人が一番前に座ってしまいご注意を受けたりと試合前から気疲れした。

師匠から隙を作らず話しかけられない様に教わってきたのに、プロになるとこんなに周りに人がいて話しかけられるのかと驚いた。

そんな中、練習日に取材された雑誌のインタビューは思い出深い。

どうやらゴルフ界で師匠はスパルタ指導で有名だったらしく、記者の人は師匠の厳しい指導のエピソードを期待していたようだった。

しかし師匠の厳しくも愛情のある指導を弟子の私から聞いて、とても素敵な記事に仕上げてくれた。

そしていよいよプロデビュー戦初日を迎えた。

私の組を見守ってくれていたのは母をはじめ、地元相模原から応援に駆けつけた叔父たち。

それでもスタートコールでプロデビュー戦と紹介されると手が震えた。
緊張して打ったドライバーショットは確か右ラフ方向にいったと記憶している。

帯同キャディと二人で話し合いながらのラウンドは緊張しながらも2日目までは順調にいき、普段の力が発揮でき初戦予選通過となった。
プロデビュー戦予選通過ということで試合後囲み取材される。

テスト終了から初戦予選通過まで気を張って過ごしていたため、予選通過したことで少し気が抜けたのか3日目は大叩きで順位も大幅に下がってしまった。

帯同してくれた年上の研修生が
「新人が予選通過して3日目大叩き。丁度いいよ。新人らしい」
といってくれた事で最終日は気負わず思いっきりプレーし、確か73でラウンドして順位を20番手くらい上げて初戦を終えることができた。

19 想像と違った孤独なツアー生活

新潟での初戦が日曜日に終わってその足で栃木に戻り、火曜日には三重県に移動することになっていた。

364日ゴルフをしていた修行時代も毎日ハードだとは思っていたが、
トーナメントになると全国各地の試合が開催されるところに移動するということがめちゃくちゃハードなことだとプロになって初めて思い知る。

この時正直「1試合でこんなにクタクタになるのに、あと8試合戦い続けられるのか?」と思った。

今思うと、相談できる人が周りにいなかったことがこの後、自分をどんどん追い詰めていくことになった。

2戦目は涼仙ゴルフ倶楽部で開催された東海クラッシック雪印レディース。
初戦予選通過したことで主催者側からの配慮があり、初日の組み合わせが岡本綾子さんと同組。

否応なしに注目される。
ギャラリーもたくさんついてくる。

そんな中、初日75で回って54Tスタート。
2日目76でトータル7オーバー・67Tで予選落ち。

2打足らずの予選落ちだったが自分の中では悪いゴルフではなかった。
自分のゴルフの実力からしたら「普通」の結果だったかもしれない。

しかし周りからは
「惜しい」「もう少し」と結果で判断され、
次の試合はもう少し頑張れみたいな言葉をかけられる。

結果が全て。
この時なんとなくプロの世界というものの厳しさを肌で感じはじめたのかもしれない。

師匠から聞かされてきたのは一流のプロゴルファーのプレゼンスと周囲の扱いだった。

優勝すれば副賞で車がもらえる
複勝したら車をどうするか?とか
親孝行のために家を買ってあげたいとか銀行に行けば頭取が接客するとかしないとか。

未知の世界過ぎたし、その話をしている時の師匠の顔が嬉しそうだったので練習の合間の楽しい時間だった。

しかし、現実は違った。

出場できる試合の宿泊、練習ラウンド、移動、その間の食事全て自分で行わなければならない。

会場に顔見知りが一人もいない中、話す事を禁じられてきた私は人に聞くこともできなかった。

そんな私の姿を見かねて、前年度トップ合格の先輩プロが声をかけてくれた。

「私も去年は若林さんと同じだったのよ。一緒に練習ラウンドしましょう」
と誘ってくれた。
試合が始まれば敵ともなる選手に声をかけて助けてくれる人がいる。

不安で押し潰されそうだった私を救ってくれた。

20 プロ1年目

慣れないプロ生活1年目もあっという間に最終戦となり、
9試合目は松山のエリエールレディースだった。

プロデビュー年の成績は9試合参戦して1試合予選通過、8試合予選落ちという結果で終わった。
来季出場する為にはまた予選会を勝ち上がらなければならない。
秋の地区予選、翌年春の統一予選会と上位の成績を収めなければ来季の出場権は手に入らない。

スケジュールが立て込むため落ち着いて練習することができない。
体を休めてメンテナンスすることもできない。
心はどんどん追い詰められていく。

その中で、救われたのは同期の存在だった。

ルーキーキャンプで私のデビュー戦を見守ってくれていた同期が予選会で声をかけてくれる。
一緒にラウンドをこなしたり練習をしていくことで試合会場に行くことが楽しくなった時期でもある。

同期は年齢もバラバラだが同じ時期に同じ夢に向かって歩んだみんなのストーリーがある。
その事が大きな心の支えとなり遠く離れていても同期の存在がエネルギーになり、27年経った今でもかけがえのない存在として同期は繋がっている。

翌年97年は推薦でトーナメントに出場したり、ステップアップツアーという下部ツアーに参戦した。

トーナメントの予選会通過はなしだったがステップアップツアーで上位になるなどプロとして少しの賞金を手にすることはできた。

しかし、全国を回って試合に行くには経費がかかるので少しの賞金では到底足らない。
それまで所属していたゴルフ場が支援してくれていたが、これ以上は…というお達しがでた。

ゴルフをはじめてからずっと恵まれた環境に身を置いてきたがそれを活かしきれなくなっていた。

篤志社長から
「ハングリーさを養う為に他所のところに行ってみたらどうだ?」と言われ、
戦力外通告を受けた様な衝撃を受け落ち込んでいたところ、その話を聞きつけた母から連絡がきた。

「お金の心配はしなくていい、お母さんが何としてもお金は工面するから相模原に帰ってきなさい。このままそこにいたら社長が言うように甘えてしまってプロとしてダメになる」と言われた。

プロとして自立していく覚悟を迫られた時だった。

東松苑を離れることを全く考えていなかったため不安もあった。
しかし、地元に帰ると快く迎えてくれる人がたくさんいることに気付かされた。

地元の練習場をはじめ名門コースでの練習環境。
隔離されひたすらゴルフに打ち込んだ研修生時代と違い、人とコミュニケーションを取って助けてもらうことを少しずつ学びはじめた時期でもあった。

この頃、廣済堂がオフシーズンにアジア各地で新人の実戦の場にと開催していたアジアサーキットに98年参戦した。
海外という初めてのことで色々な面で心配があったが同期の勧めで私も一緒に参戦する事を決めた。

21 海外での試合経験

相模原に戻ってから和也プロにスイングを見てもらうようになっていた。
試合で戦えるようにフォーム改造に取り組んだ。

和也プロのゴルフ理論を信じて、教わったことを理解しようと必死に体に染み込ませようと練習した。
その甲斐あってアジアサーキットでは結果を残せた。

5カ国6試合に参戦。
日本のトーナメントでは予選通過が1回という経験不足のところがあったが、初戦の台湾でギリギリ予選を通過することができた。

その事が自信になり、各国の試合で予選通過することができた。
最終戦のタイでは6タイと上位で終えることができた。

アジアサーキットでのこの経験が帰国後すぐに行われる後期予選会で自信を持って臨むことができたこともあり、上位で通過し夏からの後半の全試合出場権を手に入れることができた。

やっとプロとして活躍する場ができる。

そんな期待を持っていたが、指導者なし、コーチなし、スポンサーなしの状態だったので試合が近づくにつれだんだんと不安で心が押し潰されそうになっていった。

不安なまま試合に臨めば結果は一目瞭然。
最下位を毎回争う結果となる。

何をすればいいのか何を信じればいいのかわからなくなり、今思うと切羽詰まって衝動的な行動だったと思うのは中嶋常幸プロに電話をしたことだった。

連戦毎回予選落ちが続き周囲も心配する状態だったので
「試合で成績が出ずどうしていいかわかないのでスイングを見てもらえませんか?」

あまりにも唐突で具体的じゃない。
常幸プロはトーナメント中に何かアドバイスをしても結果が良くならないことは百も承知だったと思う。

しかし千葉の個人練習場「練正館」に招いてくれた。
練習を一緒にしながらゴルフの基本となるドリルをいくつか教えてくれた。
さらに常幸プロは自身の貴重な経験を私に聞かせてくれた。

三重から千葉へ新幹線とレンタカーを乗り継ぎ、練習をしてその足でまた試合会場の三重に戻り、翌日試合に出るというスケジュール。

この行動は自分を追い詰めるだけと今ならわかるが当時はいても立ってもいられない状態で動いていたと思う。

22 再び、あのトッププロとラウンド

当時一緒にトーナメント参戦していた同期も試合で結果を出したい、出さなければと思い、日が暮れるまで来る日も来る日も一緒に練習をした。

トーナメント会場は最高の練習環境が用意されているため、練習ラウンドの後、プロアマの日、試合の後と本当によく練習をした。

シーズンも最終戦に近づいてくると、私自身トーナメント会場の雰囲気にも慣れてきたのか段々とゴルフの状態が良くなってきた。

今季の試合で結果を出すことよりも秋の予選会に向けて調子を上げていこうと気持ちを切り替えた私はスコアが上向きになってきていた。
とはいえ最下位から予選カットギリギリのところまできたと言う状態である。

東急セブンハンドレッドで行われた富士通レディース。

初日5オーバーで上がってきた私に仲良しだった台湾選手が嬉しそうに「由美、あなた明日ラッキーね」と親指を立てて笑っていた。

なんのことかと思いながら2日目の組み合わせを見てみると、私と岡本綾子さんの名前が並んでいる。
再び世界のトッププロ岡本綾子さんと同組で回るのだ。

オーマイガー!終わった!
予選会に気持ちを向けて自分のゴルフを追求しようと思っていたのに岡本さんと一緒とは…

ギャラリー多し。
カメラマン多し。

しれっと回ってきたかったのにめっちゃ緊張するじゃないか〜と、勝手に自分にプレッシャーをかけまくって臨んだ2日目。

案の定前半9ホールはバタバタしてスコアを崩した。

調子の悪い選手には悪い流れが波及するので声をかけないものだ。
前半、岡本さんが声をかけることはなかったし、こちらも談笑する余裕すらなかった。

ハーフターンのトイレで
「このまま棄権しようかな…逃げてどうする?…でも残りハーフどうしよう…」
と悶々と考えたが答えは見つからず。

「もうクヨクヨ考えても無理。悩んでいる時間はない。目の前のボールを叩いていこ」
と野球なら円陣組んで気合い入れるようなものだが、流石に大きな掛け声は一人でできない。

でも気持ちは切り替わっていたようだった。

ティエリアに向かう途中、岡本さんがギャラリーに握手を求められた後

「若林、今なんで握手を断ったかわかる?」
と声をかけてくれた。

理由なんてわからなかったが
「ギャラリーと握手をして手油がついてグリップが滑ると嫌だからですか?」と答えた。

岡本さんは笑って
「違うわ、人の氣が手から感じるのが嫌だからよ」と言った。

トッププロが気を配るところは次元が違うな〜といちファン目線でその話を聞いていた。

そんな会話をしたからなのか少しずつ落ち着いてプレーできるようになり徐々にスコアがまとまってきた。

後半9ホールは確か1アンダーで回ってきたと思う。
前半のスコアが響いて予選落ちはしたが目の前のボールに集中できたことで自分のゴルフをすれば予選会もいけるんじゃないかと手応えを感じた。

試合後、岡本さんにお礼の挨拶にいくと
「また一緒に回りましょう」
と声をかけてもらい嬉しかったのを今でも覚えている。


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